【クラブ員コラム】長野県 山浦昌浩

日本農業の灯台となる

サラリーマ農家

私は葉物野菜の産地である長野県南牧村野辺山(写真)の株式会社アグレスで総務・未来開発室長という舌を噛みそうな役職を頂いている一社員である。両親は私の幼少時は自営業を営み,当時は裕福な家庭だったが,小学校3年生の時と約7年前の二度にわたる負債数億円の倒産を経験し,波乱万丈な家庭で育ったものの,農業に関しては5年前までは知識も経験も興味もなかった。ただ,なるべくして農家になった,出会うべくしてアグレスの社長である土屋梓に出会ったのだと強く感じている。
とはいえ,就農5年目にして農作業は少なくなり,現在の役職のもとに補助金や求人,その他 GAP やパンフ作成などマルチに動きながら,新規事業やイベント企画などの立ち上げ,そして気が付けば一社員ながら PALネットながの(長野県農業青年クラブ)会長,4H クラブ(全国農業青年クラブ連絡協議会)理事など大任を受け,県内外と走り回っている。
ひとえにそんな境涯を頂いたのは,会社の器の大きさであると感謝が絶えない。と同時に多岐にわたる仕事の中で「私は農家なのか?」というジレンマが鳴り止まないのも事実である。

なぜ農業だったのか

私は20歳の時に国際支援の現場で働くことを決意し,イギリス留学などを経て27歳の時にカンボジアで現地 NGO スタッフとして採
用を頂き,その身を国際支援に捧げるつもりだった。転機となったのは二つの出来事。一つは妻(日本人)とカンボジアで出会い,結婚を意識し始めたこと。もう一つは前述した二度目の実家の倒産だった。倒産の半年前,NGO の仕事もうまくいかず鬱々としていた中で実家の危機が表面化し,帰国を余儀なくされた。とはいえ,私の力の及ぶレベルではなく敢え無く倒産し借金は残ったが,個人的には親から世代交代の時が来たのだと悲壮感はなかった。ならばどうやって生きていくか。今は人の支援をしている場合ではないと,次に興味のあった教育の事業を立ち上げようと試みたが時期尚早過ぎると断念。何よりそのころには結婚が決まり,お金も必要なのでとりあえず実入りがよかった運送会社に入社し,10t トラックのドライバーをしながら手取りの1/3を借金返済に充てながら次の人生を考え,ただただこのまま終わるのは嫌だと思っていた。そんなある日,友人から「農業と海外に興味のある人を探している」と連絡があり,迷わず手を挙げた。それが私の就農である。前職であるその会社については割愛するが,そこで多品目野菜の栽培の基礎と貴重な海外での農業経験を積ませてもらい,何より就農する機会を頂いたことに深く感謝している。

経営理念「日本農業を革新する」

アグレスには研修やイベントの立ち上げですでに知り合いだった土屋に誘われて入社した。前述した私のバックグラウンドを面白がって,アグレスに新しい風をということだったように記憶する。三年強,主品目であるホウレンソウを中心に畑作業に従事しながら,土屋に連れ添われ,農業のイベントや交
流のある農家さんと出会わせてもらったおかげで栽培のみならず,農業界とそれに伴う多くの問題について少しわかりはじめたとき,「農業界は面白い!」と心から思った。全く畑違いの分野から来た私にとって日本農業の数多くの問題は魅力にしか見えなかった。なぜなら,ここには私にしかできないことがあると思ったからだ。勘違いといわれようがそう信じることが一番の近道だった。そして,日本一アグレッシブな農家になろうと名付けられたアグレスの経営理念は「日本農業を革新する」。それは混迷の闇の中にある日本農業に一筋の光を示す灯台になることだと理解している。ここに出会うべくして出会ったと思いたくなる不思議な縁を感じたのである。

農の本質を守りたい

日本だけではないが,物質的に豊かな国では相対的な価値観にとらわれ,当たり前に存在しながらも生きることに不可欠な空気や水,食を育む大地がないがしろにされ,その次に大事な農力は形や美しさにしか価値を付けられず,作物は廃棄されていく。流行的に農業に価値を見出されては,半世紀もの間日本の食を支えてきた老齢の功労者を横目に数十億単位で投資された巨大なハウスが連なり,アグリビジネスといわれる農家の意識の及ばない部分にビジネスチャンスを見出し,軽トラを横目に高級車で乗り付け,相談を受ける。もちろんすべてを否定しているわけじゃない。少子高齢化で後継ぎ人口自体の減少や働き方改革など仕事における人権を守るために,作業効率を上げる機械化や IT,はたまた外国人実習生に頼らざるを得ないのは当然のことであるし,アグリビジネスによって農家の仕事が細分化され,より栽培に集中できる一助になっているのは間違いない。ただ,どこまでいってもそのベースとなっているのは土を耕し,種を植え,収穫に汗を流している農家であり,不毛の大地を鍬一つで現代に残した名もなき先人の開拓者なのだ。だから私は,農家こそが力を持ってほしいと思っている。一番苦労し,汗をかく皆さんが日本の食の中心であってほしい。見た目のカッコよさやプロモーションに力を注ぐのもいいけど,泥と汗にまみれて,天候や害虫と戦っているそのままの姿が一番かっこいいのだ。ただ時代の流れの中で,これから動く農家と動かない農家の格差は間違いなく広がっていくだろう。だから私は30年後,50年後の農業を担う未来の農家や開拓者の育成に尽力していきたい。その一環として,まず農業に特化したスタディツアー「農スタ」という形で自身の経験を活かし,農業に携わる若者を海外に連れ出し,彼らに未知の価値観を提供している(写真)。視野を広くもち,多様性に富み,刹那的に移り変わる社会の中でも絶対負けない農家,そんな人たちが日本農業の中心になれば,農業は憧れの職業になっていくはずなのだ。そして,そうしていくことが私の夢でもあり,使命でもあると信じている。願わくは,私もそんな農家の端くれでありたい。

引用:公益財団法人 大日本央会「農業」平成30年(2018)9月号~私の経営と志~